20代で7社の転職を経て企業再生の中の人のブログ(旧:AB型企業内自由人ムライの万華鏡)

大手シンクタンクやWebサービス会社、外資系コンサル戦略部門を経て、今は流通業の再生に中の人が日々の日常について話します。尚、本ブログの投稿内容は会社とは一切とは関係なく、一個人の見解として記述いたします。

記憶にはネタもご一緒に

近況 

本日は、同じセミナーの先輩である
Kさんとランチさせて頂きました。

積極的に人に会っていらっしゃり、
その姿勢非常に勉強させて頂きました。

今後、勉強会の企画を考えられているとのことなので
2-3僕なりの視点をお伝えましたした。

何かしら参考になれば幸いです。

引き続き、よろしくお願いいたします!

今日の本題 

後輩との飲み会で 

さて、昨日は突如後輩に飲みに誘われたので
先輩としては、断る理由もないので焼き鳥食べに行きました。

飲みの理由は、自分が前の上司の期待に
超えられなかったからじゃないかなど
不安に思ったので相談したいという事でした。

その純粋な精神うらやましいですね。

転職等々、ある程度社会の波をわたってくると、
良くも悪くも気にしすぎなくなる部分もあるので。

そのとき、後輩にした話をちょっと視点を変えて
お届けしたいと思います。

思い出すとつらいと感じる記憶ありませんか?

会社で目標達成出来なかった時のことや失恋など
ついついネガティブなイメージを持って記憶してしまう
ことはないでしょうか。

 ・あの時の自分が○○だったらから・・・

 ・自分が○○しなかったせいで・・・

など、そういった言葉と一緒に、ネガティブな
記憶というものは、補完されていると思います。

実は、この言葉というのが記憶の保管においては
気をつけたいポイントと思っています。

「コップ半分の水」という例え話があります。

「半分しかない」のか、「半分もある」のか、
それはその人がどういう視点で物事を眺めるのか
によって使われる言葉が変わるというものです。

ここで着目したいのは、「コップ半分の水」というのは、
その時点では、

ポジティブにもネガティブにも意味を持っていない

ということです。

つまり、自分が「つらいな」とか「嫌だな」と思っている記憶は

自分の言葉でマイナスに意味づけてしまっている

ということになります。

記憶をマイナスに意味づけてしまうと

 ・思い出す時に、つらい感情を起こしてしまう(どうせなら楽しく生きたい)

 ・ひどいと同じ挑戦が二度と出来なくなる

といった作用を引き起こしてしまうと思います。
(自分も過去にそういった事があり大変でした)

では、どうすれば良いのか。というと

記憶をネタの材料にしてしまう

テレビを見る方であれば、ご覧になったことも
あるかと思いますが、記憶の保管方法としては
「すべらない話」がヒントになると思っています。

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引用:amazon

芸人の方が、とにかく観客のみなさんに
笑っていただくために「すべらない話」を疲労する訳ですが、
この話にはある傾向があるように思っています。
(お笑い詳しい訳ではないので、専門家の方ご了承ください)

それは、

 一見すると「恥ずかしい」・あるいは「思い出したくない」
 ようなエピソードが含まれている

ということです。

つまり、自分が話したくない、恥ずかしい、あるいは
つらいと感じたエピソードも見方を変えると、ネタになるということです。

すべらない話だけでなく、有名人のこれまでの軌跡を追うような
番組を見ていると

 ・昔は、全然出来なかった。けど、あの時の○○が・・・

といった話が良くあると思います。

こうした、ネタの中のエピソードとして記憶を保管して行くと、
一見して「つらい」と感じることも、

かけがえのない貴重な経験

として、その姿をかえることが出来るのではないでしょうか。

話をまとめますと、

記憶はそれ自体では意味を持たないので、
ネタの材料として無味乾燥のまま保管しておき、
組み合わせる話や出来事に会ったとき、
「かけがいのない経験」として登場させることで、
1つ1つの記憶が貴重なものとなっていく

のではないかなと僕は思っています。

それでは今日も良い1日を!

今日のまとめ

・何かしら「つらい」・「思い出したくない」記憶を
 持っている人たちがいる

・その記憶自体には、「コップ半分の水」のように
 意味はもっていない。自分で意味をつけてしまっている

・マイナスの意味を持った記憶を抱えてしまうと、
 同じ事に二度と挑戦しようと思わなくなってしまう
 リスクもある

・それであれば、「すべらない話」のように、
 今後の話の「ネタ」として保管しておく事で
 かけがえのない経験として意味づけが出来るようになるのではないか