20代で7社の転職を経て企業再生の中の人のブログ(旧:AB型企業内自由人ムライの万華鏡)

大手シンクタンクやWebサービス会社、外資系コンサル戦略部門を経て、今は流通業の再生に中の人が日々の日常について話します。尚、本ブログの投稿内容は会社とは一切とは関係なく、一個人の見解として記述いたします。

基本を教えてあとは伴走 ~教え方のヒント~

近況 

今日から新しい部署に異動になります。
といっても大枠の組織の中の小さな異動ですが。

ただ、これまでとは異なるチャレンジ
が出来そうで楽しみです。
(会社の本丸に関わりそう)

今日の本題 

ここ数か月インストラクターをしていました

前の部署に異動してから、新人の指導を
任されるようになりました。

その部署の仕事は実はまったく何をやるか
知らなかったのですが(笑)。

結果としては、
ここ数ヶ月でめっきり成長してくれました。
(ひいき目かもしれませんが)

冒頭にもある通り、業務の中身や当該部署の
専門知識がなかったので、僕がやってきたことといえば、

毎日MTGして、仕事の進め方に対して

「計画・行動・結果・考察」

振返りを実施してただけでした。

なぜ、これだけをしていたかというと、
僕なりの経験・反省をもとにあります。

これまでの教育の反省

大学1年生から始めた水泳部のコーチ活動を
きっかけに教育・研修といった領域に踏み込んで
いくのですが、最初はとにかく下手でした。

良くあるのが

 ・そもそも、自分がちゃんと理解していない
  (これは、教える側の1つのメリットでもありますが)

 ・伝え方、説明の仕方が難しくて理解されない
  (いざ、自分の得意分野になってしまうと専門的な
   言葉をつかってしまったり)

など、今考えても恥ずかしいことばかりです(笑)。

その中でも自分なりに反省しているのが、

教える側が知識ややり方を詰め込むことを長期化しない

ということです。

詰め込むべき物は何か

なぜ、詰め込みつづけることを反省しているかというと

考えなくなる

学ぶことが目的となってしまう

これに尽きるかなと思います。

まず、あれもこれもやり方などを教えると
多くの場合において発生するのが
「どうすればよいですか?」
という質問しか来なくなることです。

この人に聞けば答えを教えてくれるから聞こうという
習慣になってしまい。自分ならどうするのかということを
考えなくなってしまうんですね。

そうすると、その人がいなくなった時や応用が
必要な場面で工夫ができなくなってしまうなと感じてしまいました。

そして、もう1つの「学ぶことの目的化」ですが、
知識を詰め込むと前よりも「知った」気持ちになるので
嬉しいんですね。

そういう僕も結構その傾向があるので、学び中毒にならない
ように気を付けないといけないなと思っています。

ここら辺は以前の記事が参考になるかと思います。

たとえていうと、学び続ける人は
ダイエット系のスポーツドリンクばかり飲んでいて、
運動しない人と同じになってしまうように思います。

知識というお肉ばかりついて、ぷよぷよになってしまい
結局スリムに運動が出来なくなってしまうような感じです。

こうした2点を防ぐためにも、別の教え方が必要になるかな
と考えています。
(注:全ての「詰め込み」がダメなのではなく、「詰め込み続ける」
   ことが違うのではないかと僕は思っています。。)

では、どうれば良いかというと、
冒頭にも書きましたが、基本を教えた後には

「計画・行動・結果・考察」

を伴走して行えばよいというのが僕の考えです。

やはり実践してみないと知識が結果にどう結び
つくのか体感できません。

そして、振り返ることで自分に必要な知識や
スキルも見えてきます。そうして、「本当に必要だ」
と感じた段階で知識も学んだ方が吸収率が高いんですね。

そして、伴走という考え方が大事で、
こうした計画を作った方が良いと手取り足取り教えて
しまうと結局自分で考えなくなってしまいます。

あくまで伴走して、良いと感じた点と改善点を伝えつづけ、
次どうするかは本人に考えてもらうのが良いかなと感じています。

本日から11月ですね。
僕の誕生月です。(どうでもよい話ですね笑)

それでは、今日も良い1日を

今日のまとめ

・ここ数か月指導した新人が大きく成長してくれた

・やってきたことは、「計画・行動・結果・考察」
 に伴走しただけ

・教える側として気を付けたいことは、
 知識ややり方を詰め込み続けすぎないこと

・それは、結果として本人が
 「考えなくなる」、「学ぶことが目的になってしまう」
 になる可能性がある

・そのためにも、基本を教えたら、
 本人に実践し振り返ってもらい、時々フィードバックする
 伴走型スタイルがよいのではないか